基礎知識
ナッジとは…?
行動経済学的にはいくつかの定義がありますが、「人間がかならずしも合理的には行動しないことに着目し、伝統的な経済学ではうまく説明できなかった社会現象や経済行動を、人間行動を観察することで実証的にとらえようとする新たな経済学」(日本大百科全書)というのがわかりやすいでしょう。
セイラー氏による著書『実践行動経済学』(2009年日経BP社出版)のオリジナルのタイトルは『Nudge』(ナッジ)です。ナッジは「ひじで人をつつく」の意味があり、セイラー氏らは「人を強制することなく、望ましい行動に誘導するようなシグナル、仕組みまたは戦略」としています。「知らず、知らずのうちに」という言葉も使われます。
行動経済学の基本=人の行動は限定的合理性
行動経済学の創始者とされるカーネマン氏らは、「二重過程理論(Dual Processing Theory)」を提唱しました(二重過程理論の基礎は心理学者であるウィリアム・ジェームズに由来しており社会心理学の分野で様々な二重過程理論が提唱された)。人の意思決定は、直感的・感情的で素早い“システム1”と、理論的・理性的で、ゆっくりである“システム2”の2つがあるというものです(図1参照)。そして、たいていはシステム1により行われます。
日々刻々、さまざまな意思決定と行動しなければならない日常で、いちいち論理的に考えていられません。とっさの判断や経験などから、近道(ショートカット)してしまうのです。これを、行動経済学では、“ヒューリスティック”や“プロスペクティブ”と呼びます。この「人の行動は完全に合意的で論理的ではない」(=限定的合理性)が、行動経済学の基本です。
アンカリング
- バスケットボールのゴールに類似したゴミ箱を使うとゴミをきちんと捨てるようになる。
- 男性用トイレ(小)の便器に的のシールを貼ると、トイレの周りが汚れない。
のような話を聞いたことはあるでしょうか。人の判断や行動は、何らかの先行する刺激やヒントによって食べる量が変わります。お皿や袋の大きさによって食べる量が変わります。お皿を大きくすれば、つい多く盛り、たくさん食べてしまいます。大きな袋よりも、小さな袋で小分けにしたほうが食べる量は少なくなります。(日本のお菓子が例)
デフォルトオプション
- ジェネリック医薬品の推進のために、希望しない場合に処方せんにチェックを入れる。
- 参加したくない人のみ、申し出てもらうと、研究への参加者が増える。
これらは、デフォルトオプションという考え方に基づきます。人は、あらかじめ設定された標準的な選択肢(デフォルト=初期値)を受け入れがちです。ジェネリック医薬品の例では「使用する」、研究参加の例では「参加する」がデフォルトです。参加を選択する“オプトイン”、“不参加を選択する”オプトアウト“という言葉もよくつかわれるようになっています。
健康づくりの関連では、セットメニューの小鉢を野菜料理にする、保健指導は原則全員が受けるようにする、などの例があります。デフォルトオプションに近い理論に「現状維持バイアス」があります。これは、未経験のものを受け入れたがらず、現状を維持したいと感じ、同じ行動を繰り返すことを言います。最初に購入した車と同じメーカーの車を買い続けるなどです。
フレーミング(フレーミング効果)
- “100人中10人が失敗する手術”より“成功率90%の手術”のほうがよさそう。
- “楽天が西武に敗北“よりも”西武が楽天に勝利“のほうが、西武ファンは喜ぶ。
このように、同じ内容でも表現や提示によって心象や意思決定への影響が変わることをフレーミング(フレーミング効果)と言います。健康行動を促すのに、どのようなメッセージを使うかは悩むところです。運動するメリットを伝えるのか、運動しないデメリットを伝えるのかによって、運動教室への参加率は変わるのかもしれません。
松竹梅の法則・選択肢削減の法則
- 値段の異なる3つの料理のコースがあった場合、真ん中を選んでしまう。
- 選択肢は7つまでにすると選んでもらいやすい。
2つの料理のうち高い値段のものを選ばせたいのなら、さらに高い値段のものを追加するのがよい、という法則です。なぜならば、人は3つの選択肢があった場合、真ん中を選んでしまいがちです。これは「極端回避の法則」とも呼ばれています。また、選択肢が多すぎるとどれか1つを選ぶのが難しくなるため、意思決定を促すには選択肢を少なくするのがよいとされています。社会心理学者シーナ・アインガーが発表した「Choice and Its Discontents :A New Look at the Role of Choice in Intrinsic Motivation」に記載されているジャムの選択実験によれば「選択肢の数を7±2程度にすると良い」と言われています。
損失回避
- 「効果がない場合は返却できる」場合でも、返却する人はほとんどいない。
- 「2分の1の確率で20万円が手に入る」か何も手に入らないよりは、「10万円がかならず手に入る」を選びやすい。
利得による満足感の増加よりは損失による満足感の低下が大きく、人は得するよりも損したくないと思うものです。前者の例では、一度手に入れると失いたくない、後者の例では「何も手に入らない」という損失を回避したくなるものです(図5)。人は利益より損失の方が「感じる損得の大きさ」が大きい
異時点間選択
- 1年後に1万2000円もらうより、今、1万円もらいたい。
- タバコがやめられないのは、現在の小さな快楽(ニコチン依存の解消)が将来の重いリスク(数十年後の肺がん)の回避よりも価値が高いと思ってしまうから。
私たちは、今と将来のどちらの選択を迫られると理性的な選択が狂い、つい今のことを選びがちになります。「現状バイアス」「近視眼」とも呼びます。将来のことは価値が低下してしまうのです。将来に消費するよりも現在に消費することを好む程度を「時間選好(率)」と呼びます。人によって時間選好の大きさは異なり、時間選好の大きな人は健康に悪い行動をとりやすいとされています。
コミットメント
- 禁煙の成功率を高めるために、会社の掲示板に「禁煙宣言」を載せる。
- ダイエットに失敗したら罰金として小遣いを減らすことを約束する。
将来の自分が行う行動や選択を縛ることで、目標が達成しやすくなります。コミットメントは「責任をもって名言する」あるいは「責任のある約束をする」という意味で使用されます。ダイエットについて「結果にコミット」というフレーズがありますが、これは責任をもって結果を出す(減量させる)ことを約束していることになります。
インセンティブ
- 日々の歩数を登録して、歩数に応じて商品に換えられるポイントをもらう。
- 禁煙に成功したら社長から金一封をもらう。
最近は、こうした健康ポイント制度が盛んに行われています。ポイントなどのインセンティブを与えるもののほか、くじの要素を取り入れたものや、あらかじめお金などを預けておくデポジットの方法もあります。インセンティブとは逆に、ペナルティが使用されることもあります。たとえば、「喫煙者は保険料が高い」「健診を受けないと昇格できない」などです。どのようなインセンティブ(あるいはペナルティ)が効果的なのか、インセンティブに見合う効果はあるのか、などよくわかっていない部分はありますが、行動の動機になるのは確かでしょう。
人の行動に変化をもたらすフレームワーク
健康づくりにナッジを活かすヒントとして、ナッジと行動経済学の理論をまとめた フレームワーク「MINDSPACE」と「EAST」を紹介します。MINDSPACE(表1参照)は、人の9つの行動特性として、Messengers、Incentives、Norms、Defaults、Salience、Priming、Affect、Commitments、Egoを表しています。EAST(表2参照)は、MINDSPACEと同様の内容を含みますが、Easy、Attractive、 Social、Timelyの4つに絞っています。
カテゴリー | 内容 | |
---|---|---|
Messangers | メッセンジャー | 権威のある、あるいは重要な人がらの情報に影響を受ける |
Incentives | インセンティブ | その行動をとらないと損するように思える。インセンティブやペナルティがある |
Norms | 規範 | 他の人がやっていること(社会規範)に影響を受ける |
Defaults | デフォルト | あらかじめ設定されたもの(初期設定)に従う |
Salience | 顕著性 | 目立ったり、自分に適していると思うものに惹かれる |
Priming | プライミング | 潜在意識が行動のきっかけになる |
Affect | 情動 | 感動するものに惹かれる |
Commitments | コミットメント | 約束を公表すると実行する |
Ego | エゴ | 自分に都合の良い、あるいは心地よいことを行う |
カテゴリー | 内容 |
---|---|
Easy | 簡単である |
Attractive | 魅力的である |
Social | 社会的規範となっている(皆がやっている) |
Timely | 時期は適切である |
MINDSPACEやEASTは、人に行動を促すために必要な、効果的な方法の条件と言えます。健康づくりの取り組みや健診の勧奨などを企画したり、見直したりするときに、これらの条件を確認し、より合ったものにすることで効果が高まるでしょう。
たとえば受診勧奨の方法やリーフレットを例にしましょう。記載されているメッセージは、対象者にとって影響のありそうな人(たとえば、有名人、社長、あるいは家 族)からになっているか(Messengers)、受けないと損するように思えるか(Incentives)、みんなも 受けているように感じるか(NormsまたはSocial)、受けるのがあたりまえになっているか(Defaults)、 楽しそうか(AffectまたはEgo)、勧奨の時期は適切か(Timely)などをチェックし見直すことができます。
ナッジや行動経済学は、アイデア抜群の大がかりなしくみというわけではなく、日常的に行っていることをちょっと見直すためにも役立つのです。